
日本新金属株式会社
常勤監査役 近藤 豊
二十数年ぶりに本社勤務となりましたのを機に、小学校3年生から5年生までの3年間を過ごした和歌山県那智勝浦へブラリと行ってみました。
私の父親は当時の三菱金属鉱業株式会社に勤務しておりましたが、昭和30年に宮崎県東臼杵郡の槇峰鉱山から和歌山県那智の妙法鉱山へ転勤となり、私も3年間をこの温暖な那智勝浦ですごしました。妙法鉱山は銅鉱山で、当時は非常に活況を呈しておりました。しかしながら、鉱脈の枯渇化と、銅価格の下落により妙法鉱山はこのあと昭和47年に閉山となります。
今回の那智への旅は約20年振りになりますが、最初は那智の滝に行くつもりで那智駅からバスに乗りましたが、途中車内アナウンスの“つぎは牧野々です”に、突然記憶が蘇り、そこで降りることにしました。牧野々には当時社宅があり、私はここから小学校まで毎日バスで通っておりました。
バスを降り、徒歩で昔住んでおりました社宅を捜しましたが、あたりは一面の荒れ野原、数十軒もあった社宅は勿論影も形も無く、たぶん我が家はこのあたりでは、と思われる場所に立ったとき、懐かしさよりも何か非常に寂しい感じがいたしました。
それから15分程歩いて、当時私が通っておりました市野々小学校に着きましたが、途中乗用車や観光バスに全く出会うことがありませんでした。聞いてみますと、昔はこれがメイン道路だったのだが、現在は裏道路となり、那智山に行く観光バス等が通るみちは、別に造られた素晴らしい道路に変わっておりました。
市野々小学校に着きますと、木造校舎は当然の様に鉄筋校舎に変わり、あのころは無かったプ−ルもありましたが、当時定番の「二宮金次郎像」は見つかりませんでした。学校関係者に聞くと、現在は1年生から6年生までの全校生徒数はたったの80人強で、各学年一クラスとのこと、聞き驚きました。
私は昭和21年生まれの団塊世代?(最近の新聞や雑誌では、団塊世代は昭和22年から24年生まれ迄と言っていますが)で、当時の一学年は一クラス30〜35人程度で、私が4年生のとき、5年6年のクラスは各2クラスでしたが、下の3年、2年、1年生はそれぞれ4クラス程、全校生徒では約600人もおりました。那智は企業城下町だったわけですが、昭和47年の妙法鉱山閉山により、人口が激減した事が大きな要因となり、さらには少子化の影響もあり、本当に小さな小学校になっておりました。
また、最寄の紀勢本線“那智"駅も、残念ながら無人駅になっていて、当時は関西方面からですと、白浜温泉、勝浦温泉、那智の滝、新宮の瀞八丁と回遊するのが観光パタ−ンでしたけれど、聞くところによると、観光客も当時と比べるとやや減っているとのことでした。
中日ドラゴンズの落合監督は、この地の温暖な気候が気に入り、勝浦の近くの鯨で有名な太地に、落合記念館を建ています。山有り、川有り、海有り、そして気候が温暖でありながら、何故観光客が増えないのか?
考えてみますと、紀伊半島の海岸線に沿って走る紀勢本線は、スピ−ドが出せないため、特急でも天王寺から紀伊勝浦間247Kmを3時間29分、名古屋から紀伊勝浦間224Kmを3時間36分を必要としています。 新幹線“のぞみ”が新大阪から東京間553Kmを2時間33分で走るというのに・・・。この比較が良いかどうかは別にして、やはりこのあたりにも問題があるのではないかと思います。
一方、平成16年7月に熊野古道が世界遺産に登録されてからは、那智大社、那智の滝をめぐる旅に、ご年配の観光客も徐々に増えているとも聞きます。ぜひ皆さんも那智へお越しになってはいかがですか。
私は生まれてから高校入学まで、父親の勤めの関係上、新潟県の佐渡金山、宮崎県の槇峰銅鉱山、和歌山県の妙法銅鉱山、北海道の下川銅鉱山、そして大阪精錬所と転居で全国を巡りました。現在ではこれらの鉱山はすべて閉山、大阪精錬所も閉鎖され、その跡地は現在帝国ホテル大阪となっております。
本当に寂しい感じがいたしますが、この後、無事退職したのち健康であれば、是非北海道下川銅鉱山跡から宮崎県槇峰銅鉱山跡を巡ってみたいと考えています。