「近江日野商人の不易なる経営哲学」

東邦金属株式会社
代表取締役 中村 裕

    戦災で、神戸の自宅が全焼し、焼け出されて一家の疎開先として受け入れてくれたのが、享保から薬種問屋を営む近江日野商人の本宅である母の実家であった。1949年4月の神戸に戻って小学校入学までをこの地で過ごすこととなる。この時、幼いながらも商人の家の生活の慎ましさを少なからず教えられたと思う。当地は滋賀県の南東部に位置する城下町で、古代「日野牧」が設置されたことが日野の名の由来とされ、鎌倉時代から平安にかけてこの地を支配したのが蒲生氏であり1513年に「日野城」を築き天文年間(1532〜1554)初頭に町割りをしたと伝わっている。

 戦国時代に、信長と秀吉に仕えて高くその名を上げた英雄「蒲生氏郷」が城下町日野の商工活動を活発にするために、天正10年(1582)楽市楽座の掟を下して商業を保護し、これがのちのち近江日野商人の活躍を促す基礎となった。日野商人の特徴は天秤棒一本の行商から始めて財をなし、千両の富を得てもなお初心を忘れず天秤棒を肩に行商に出たことから近江の千両天秤と呼ばれるところとなる。行商の往復ともに商品の販売 仕入れを行う無駄のない商業活動で、近江のこぎり商法といわれ一定の販路と資本を作ると、各地に出店し相互間で産物回しの方法が取られ、まさにこの形態こそ総合商社の始まりといえる。

 本宅の建て前は家の表側は富を誇示するようなものではなく厳格さとつつましい生活態度をよくあらわし、常に天秤棒の行商精神を忘れず、勤勉 倹約 正直 堅実を信条に富をなしたと言われている。また余財を社会に還元し、多くの公共施設にも巨額の寄付をしたと言われる話は少なくない。明和7年(1770年)には近江日野商人の全盛期が訪れ商人組合である大当番仲間は439人となり、幕府も正式に認める全国有数の商人組合に成長し、仲間には鑑札が下付され、これを荷にくくりつけて旅をすると、宿泊費の特典や指定宿での荷の保管や取次ぎができ、何より大きかった特典は、焦げ付いた売掛金を幕府公認の保護制度によってその地の領主に訴えると、その権限により未払金の支払いが命じて貰えるという、商売人にとってこの上もない大特典が与えられることであった。このように鑑札はきわめて重要なものであり、日野商人たちはそんな大きな特典を与えられた反面、商人として誠実な仲間同士が守りあわなければならない規則に大変厳しいものが定められたと聞く。また驚くべきことにこの時代にすでに複式簿記を考案して会計帳簿をつけていたことも判明している。

 また、商家には事業に成功した老年者が、家名と家業の繁栄を願い、自分の商業活動の体験や苦労をもとに人生で培った教訓を加えて子孫や店中に与えた訓戒の文章が多く存在する。その中でも特筆される近江日野商人の名家「山中兵衛門家」に伝えられた家憲は以下の通り、


 慎み (平常心を忘れるな)

一、惣年寄り役 続いて仰せ付けられ候。お上様のご威光を役儀のほかに相用い申さざるように、平生の慎み第一のこと。つけたり 陰徳に相差し障り候ことを考弁し、これあるべきこと。(まず、謙虚な人間となれ。進んで社会的貢献をせよ。)

一、仏事等、大切に相勤め申すべきこと。(「お蔭様で」の心を)

一、総じて不実がましきこと、相慎み申すべきこと。(商いは信用第一である。)

一、店仕入れ方、もろもろの代物、何によらず吟味をとげ、確かなるよろしき代物を仕入れ、売りさばき申すべきこと。つけたり 不正、粗末の品を取り扱い申すまじきこと。ならびに、高利を望むこと無用なり。(悪徳業者になるな。薄利多売の精神を)

一、お得意へもろもろの代物、実儀第一のこと。(商品はお客様への店の真心である。)

一、小さきお得意衆、かえって大切にいたすべきこと。(慢心するな)

一、伊達がましき商い、一切無用のこと。つけたり 商い、ずいぶん内場にいたすべきこと。(堅実な商いをせよ。商いはこつこつと)

一、帳合い、差しがね物、ならびに思い入れ商い、決して無用のこと。(一攫千金を狙うな。)

一、商売替え、無用のこと。(長年に培ってきた信用や技術を軸に発展させよ)

一、奉公人へあわれみを加え申すべきこと。つけたり 実体に相勤め候者へは、気を付けてやりもうすべきこと。(部下のやる気を起こさせ 部下のやる気を起こす工夫をせよ)

右の通り、相守り申すべきこと。

                                以上 享和(1802)二年 春


これらは、今読んでも新鮮味があり現代に通じるところが多く、近江日野商人の不易なる経営哲学として興味深い家訓であるといえる。

 

以上